昭和50年05月13日 朝の御理解
御神訓 道教えの大綱
「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。我が身は神徳の中に生かされてあり。」
我が身は神徳の中に生かされてある自覚に立って、人間が生活をして行く。人間社会にそういう精神的王国とでも申しますか、精神的王国を建設すると云う事に教祖のこの世に御出現あそばされた、大きな神様の願いがそこにあったと。所謂ここで言う和賀心時代を創ると云う事です。人間の言うならば心の世界、それを精神的王国を建設する、言葉を変えると、この合楽の言葉に変えますと、和賀心時代を創ると云う事です。
我が身は神徳の中に生かされてあると云う喜びを持って、私くし共が生活をさして頂く、それを信じて生活さして頂く、そういう世界を神様は願っておられるのです。今日御神前に出たらとたんに頂きましたのは、心という字の一番はじめの点の所を頂くのです。それのないのです。だから是を一つこう入れれば、心と云う字になるのです。和賀心というのは、そういうまともな心だと思うです。所がお互いの心は、心はあるのですけど一つ足りないものね、点がたりない。(文字を書いて示される)。
心と言う字を此処でこの一つ足りん是が無いとこちらの方だけをこうやって頂くんですよね、こうだから信心和賀心、信心というのは、是に一つをこう添えるどう云う事、心をどう言うを添える事かと云うと、わが身は神徳の中に生かされてあると云う心、それを信じる心、それが伴のった心を私くしは人間の完全な、完全なか本当の心になるです。本当の心と云う事はだから真の心。真の心と云う事は真心と云う事になります。それを和賀心とも言うのです。そう云う我が身は神徳の中に生かされてある。
ここに広き真の大道を開き見よと。広き真の言うならば大道、天地に繋がる所の大道と云うのは、我が身は神徳の中に生かされてあると云う事を信じて、歩かせて頂く道だと思います。御神徳の中に生かされてある、どう云う場合であってもそこ御神徳であると信じれる。そこに喜びがあり安心がある。それを砕いて言うと、何時も神様のお懐の中にあるのだと云う確信なんです だからそう云う様な、今例えば申しました様な、状態が自分の心の中に信じ感じれる、それがいうなら和賀心である。
そこでそういう状態というか、そういう心を頂く事の為に、様々な信心修行をさせて頂く訳です。成り行きを尊ぶとか、大切にすると云う様な生き方というのはです、成程わが身は神徳の中に生かされてあると云う事実を感得する事が出来るのです。自然の働きに溶け込んで行くと云う事は、そのまま自然を生かす事であると云う様な体験が生まれて来るのですから、そのどういう問題であろうがどう云う事であろうが、それに溶け込んで行くという、だから純真無垢な素直な心が要求される訳です。
その中に溶け込んで行く。そこには自然の働きを生かす大きな働きを、お互い体験する事が出来るのです。まあ大変理屈っぽくなりましたけれども。昨日は福岡支部の御大祭で御座いました、大変有難い賑やかなお祭りでした。あちらで頂きました事を皆さんにお祭りの後の話にさして頂いたんですけれども、今合楽ではというけれども実を言うたら金光様の信心者というのは、合楽に限らず全て誰でもそうであらなければいけないと思うのですけれども、この表行から生れるものではないと金光教の信心は。
もう愈々心行一つだと。心行一本だと。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと模索する時代がですね表行があるのです。お水も掛かって見る。断食もして見る。そしてそれが如何に詰らない事かと云う事が解らせて頂く所を、教祖は言うならば今日の御理解で言うと、広き真の大道を発見すると云う事は、解らせて貰うと言う事は、表行からの様な事で頂ける事は絶対ない。
しかも昨日福岡で頂きます御理解を頂きますとです、心行とは無条件だ、心行というのはどういう心の状態になれば、神様が喜こんで下さるかと云う事が、真ですけれども、それを小さくいうと、どういう心掛けにならせて頂いたら、主人が喜ぶだろうか家内が喜ぶだろうか、子供が喜ぶだろうかと、又は商売人であるならば、お客さんがどういう心の状態になったらお客さんが喜んで下さるであろうかと、どういう心の状態になったら御主人が喜ばれるであろうか。
又は使用人の人達が喜ばれるであろかと、この心を使い続ける事だと言う事。心行とはね。家内なら家内の事を一生懸命、家内がどうあれば喜ぶであろうかと言う事を思い続ける事。所がこちらが思うておる思いが家内に例えば通じない。俺がこんなに思うとるとに、お前はと例えば言う様な心が起こったらもうそりゃ既に心行じゃないち。無条件です昨日は働くと言う事の又別の解釈を頂いたんですけども、どう云う様な心掛けになったら自分の周囲の人達がね、楽になられるであろうかと云う様な心掛けなんです。
幾ら思うてやったっちゃ同んなし。向こうには一つも通じないからというのは、もう心行にはならない。相手がそれに報いようが、それが解ろうが解るまいが問題じゃない。まあいうならば、親が子を思う様な心です無条件です。それを自分の周辺のもう誰彼の上にどう云う事柄の上にでも、そういう心をしかも使い続けると云う事ふだん。ふだん草という野菜があります。ふだん草を頂いたんですけど、ふだん草の葉の裏側の方からこう見せて頂いたんですけれどもね。
私共がふだんに使うておる心のも一つ、形に表れておる所でなくて、見えない所の心を大事にすると云う事。それが心行なんです。もう今合楽では所謂表行と云う事はもう全然致しませんね。表行が本当な事では表行でおかげは頂かれてもです、表行によって真の大道を解らせて貰うと云った様な事には繋がらないからです。どこまでも心行によらなければ駄目なんです。その心行は何時も普段に使い続けられなければならない。
しかもそれは如何に使い続けてもです、表行が言うならこの体を酷使する事がまあ表行であります。心行とはだから心を言うならば使えるだけ使う事です心行とは。どう云う風に使うかというと、どういう心がけになったら神様が喜んで下さるであろうか。人が喜んでくれるであろうかという心なんです。それを使い、しかも無条件に使わして貰うその心が心行なんです。そういう例えば心行から、和賀心は生まれて来る。
是は与えられるのです。どうしたならば神様が喜んで下さるだろうかと云う様な、心を使い続けるのですから、神様が氏子がどうしたならば喜ぶじゃろうかと言う事を、思うて下さる様になるのです必ず。ですからいやが上にもです思い思われる神様と氏子の心の中にです、神様がどういう状態になったら喜ばれるでろうかと云うこの無条件に、云わば使い続けさせて貰うと、神様も又無条件に氏子がどう云う様なおかげをやったら喜ぶだろうかと神様が思い続ける様になりますから、おかげが受けられるのです。
だから愈々和賀心が開けて来るのです。喜びの心が開けて来るのです。只自分の思い自分の願いが成就する事の為ではない事になるです。そういう私は精神状態である時にです、真の大道が解らして貰う。我が身は神徳の中私くしは精神状態である時にです、真の言うならば大道が解らして貰う。我が身は神徳の中に生かされてあると言うおかげの世界があるのです。我が身は神徳の中に生かされてあるそこには、言うならば我情を言う事はいらん、我欲を言う事はいらない世界です。
我が身は神徳の中に生かされていることが解ったら、我情我欲を云わんで済む。そういう生き方を人間が身に付けて行く世界を広げて行くということを、今日は人間的社会に精神的王国を建設すると云う事が、そのまま和賀心時代を創ると言う事だと云う風に聞いて頂いた訳です。自分の心のそういう状態をね、それを広げて行こうというのです。先ずは我が身は神徳の中にいかされてあることをわかる為にです、本気で心行をしなければならないということです。
心行ちゅうのは朝の中だけすれば良いというのではなくて、もう四十六時中です、言うならば寝ても覚めても兎に角自分以外の人達が喜ばれる様な心を使う事又心を使うだけではない、それを行の上に現す事なのです。お部屋一つ云わば整頓させて頂くでもです、綺麗に整頓させて頂く。そしてお花の一つも入れておく、皆んなが気分がよかろうと。所がそうしとったけれども、当たり前のごと思うてからそれを一つも喜ばない。
まあ幾ら思ったっちゃ幾らして行ったちゃこの人ばかりは同じ事というたら、もう心行にはならないと云う事です。心行とはね其処の所が無条件なんです。無条件に条件なしにお部屋の整頓をする、お花をそこに入れけると言う事なのです。喜ぼうが喜ぶまいがねそんなこたー問題にないのです。心行とはそう云う事です。ね。お風呂を使わせて頂いた後に、きっちたその洗い場を清めておくね。
石鹸一つ使わして頂くでも、タオル一本使わして頂くでも、きちっとしておいとくと後から入る人達が気持ちが良かろうと、只思うだけでなくて、一寸そう云う事する事ですね。玄関から上がって来る時に乱れた下駄があったら一寸揃えておくと云う事なんです。もう幾ら揃えたっちゃもう出けん。もうすぐこげんして乱らかすと思うてしたっちゃ、もう心行にはならん訳です。
条件がないそうさせて頂かなければおられない心をです、愈々育てて行くのであって、そうしたから人が例えば、喜ばなかったというても、どうもすみません、何時も御迷惑掛ちからと、人から言われなくってもです、もう幾らしてやってもお礼も言わっしゃらんから、もうしてやらん。それは心行に繋がらないのです。無条件です。だから此処ん所がね、本当にそれがあのー楽しみにそれが出来る様になったら、何時もその事が思い続けられて行く。それが何時も行の上に、そうして表される。
成程これは素晴らしい心行だと思います。そういう云うならば、心使いから生まれて来るのが喜びの心、所謂和らぎ喜ぶ心であります。心行心を有難い方へ有難い方へとね使わして貰う云わば稽古を本気でさせて貰う。そこにはね神様がお返しを下さる様に、成程我が身は神徳の中に生かされてあると云う様な、生かされてあるんだなと云う事を実感しなければおられないおかげの世界が開けて来る。
そういう世界をですね、人間の世界人間の社会に広げて行こうと言うのが和賀心時代を作ろうという事になるのです。どうでしょうか人間が皆んなそこに御互いが相対しておる人達が、その人が喜ばれる様に自分の言うならば、態度と云う物がなされる。そう云う事になって来ますとです、言うならぶうっと腹けいとるてぇなんてん、絶対出来なくなって来るです。何時もにこやかにしとらなけねばおられないですね。
そういう例えば世界が自分がだけではなきて、自分のその周辺にもそういう社会が開かれて行くという。そういう世界を神様は願っておられるのです。神様の願いに応えて行くと云う事は、だから先ずは自分自身がそういう助かりのおかげを頂いて、その助かりを人にも伝えて行く働き。それをなら合楽では合楽示現活動に参画すると云う訳なのです。それにはもう愈々我が身は神徳の中に生かされてあるという、その体験を日々刻々にそれを感じ、そういう精神的心の世界、所謂ね住まわせて頂くと云う事です。
まあ兎に角ね嘘か真か本気で一つ心行する気になってご覧なさい。もう合楽で外に修行しちゃならんのですから、この心行以外に取り組む以外にないです。そこにはね人を責めるとか、叩くとかと云う事は全然いらなくなって来るです。もう責めたら心行にはならんのですから。本気で私共がねその心行に取り組ませて頂くと云う所からでなければです、何時まで経っても、真の大道は解らない。
我が身は神徳の中に生かされてあるという実感も又は、そう云う事実おかげによって現れて来ると云う事もない。心行とは無条件に神様が喜んで下さる心を使う事。しかもそれは普段に何時もそれを使い続ける事それが心行、そういう私は心行からでなければ、疑いを放れて広き真の大道を見よ。我が身は神徳の中に生かされてありと云う様な、私くしは事は解らないと思う。
是は教祖の神様の御体験がです、こういう御教えになったんだと思います。ああこういう心の状態になれば、本当にこういう勿体ないおかげの世界に住む事が出来る。成程御神徳の中に育てられると云う事は、此の様に素晴らしい事だと解るのでなくて、実感出来れるおかげを頂かして貰うと言う事。そういう世界を広げて行こうと云う事をです、人間社会に精神的王国を建設して行こうと云う風に今日は聞いて頂いたですね。
どうぞ。